訳読と意味理解
きょうは、『現代英語教育』誌の記事をレビューしながら、訳読と意味理解について考えていきます。
学力の向上による文法訳読の変容
横山(1998)は文法訳読法の概略を初級・中級・上級の3段階に分けて説明している。
- 初級:学習者は文法現象を見て確認するために文章を読むが、自力で和訳をすることは困難であり、教師から提示される訳文を媒介として文を理解していく段階。
- 中級:学習者は外国語の文章を理解するために徐々に自力で文法知識を用いて和訳を行い、文章を読むことに慣れていく段階。
- 上級:学習者は慣れてきた表現形式から順次和訳をすることをやめるようになり、一部の難解な語句を除いて和訳をしなくなる段階。
この場合、和訳はいわゆる「直読直解」のための手段であるから、奇妙で拙い日本語であってもかまわないという。横山はこうした奇妙な日本語が生み出されるのは文法訳読法の過程としては当然のことであり、直読読解に至る過程における一時的なものであると指摘する。
これに対し伊藤(1983)は不完全な日本語を書き取り記憶することによって、その不完全な日本語が学習者の日本語に転移する危険性を指摘する。実際このレベルの日本語に訳出したものが翻訳として広く読まれている。
意味理解前訳と意味理解後訳
横山は通常翻訳によって産出される訳文が原文の十分な意味理解の上でもたらされるものであるのに対し、文法訳読法の訳文は意味理解に先立って産出されることもあると指摘している。そして前者の訳文を「意味理解後訳」、後者の訳文を「意味理解前訳」と呼んでいる。教師が学習者に提示する訳文は意味理解後訳であり、学習者が産出する訳文は意味理解前訳である。
意味理解前訳は原文の十分な意味理解の後に生じるのではなく、文法的知識と語彙的知識に大きく依存している。これは外国語の文章を語句レベルで一対一で対応した訳語に置き換えることで訳文を生み出す作業である。
山岡(2001)は学校で英語が得意だった人の頭には原文の意味を考えずに訳文を作る回路ができあがっており、それが翻訳の障害になると指摘している。つまり現実の翻訳は横山の言う意味理解後訳ではなく、意味理解前訳であることが多いのである。こういう日本語が公刊された書物を通じて多くの人々の目に触れる状況では、伊藤の言うように不自然な日本語が本来の日本語を破壊する可能性は十分に考えられよう。
文法訳読と英文解釈
朱牟田(1959)は英文解釈について、英文の意味を理解してその意味を日本語で表現する行為であると指摘する。また安井(1995)も英文解釈とは英文の意味や内容を理解し説明することであると定義している。つまり学習過程のなかで意味理解前訳が生じる可能性があるにせよ、それは文章の意味を捉えるための手段であり、決してその段階に留まることなく、日本語を利用して学習する以上、学習者の日本語・英語の双方に質的向上をもたらすものにしていく必要があるように思われる。