持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

新しい時代の幕開けなのか。

けさの朝日新聞池内恵氏による記事を読んだ。記事の内容はテロリズムに関するものであるが、ここではその内容について論じるつもりはない。注目したいのはそのレトリックである。

この文章は段落構成が非常にしっかりしていたのだ。欧米の文章に見られる「パラグラフ」の概念を踏襲する「形式段落=意味段落」の構成で文章が展開していた。しかも段落の内部構造をみても、冒頭の導入部を除いて主題文(topic sentence)が冒頭に配置されている、いわゆる「頭括型」の段落になっていた。新聞記事はある程度段落構成がしっかりしたものが、一般の文章と比べて多いが、ここまでしっかりしたものはそう多くない。

書き言葉によるコミュニケーション(written communication)のあり方は、日本語社会と英語社会で根本的に異なる。日本語社会では文章を読んで難しい、読みにくい、と感じた場合にその責任は読み手側に帰す。つまり「もっと勉強しないと読めないぞ」ということになるのだ。これに対して英語社会で同様の状況になると、その責任は書き手に帰す。「分かりやすいように書かないのが悪い」ということになるのだ。米国の証券取引委員会(Securities and Exchange Commission)では株式を公開する企業に対して、投資家に向けた文書はこう書くべき、というハンドブックを公開している。わかりにくいIRなどによって投資家が不利益を受けた場合、企業がわかりにくい文書を作成することによって情報を隠蔽していると見なされるのである。

日本では、殊に学術論文などでは、わかりやすさよりも「格式」が重んじられ、専門用語(というより隠語)を用い、難解な印象を漂わせることによって、自分の研究が格調高い者であることを印象づけ、さらにはこうした研究をしている自分はエライのだという印象を一般の人々や若い学部学生や院生に植え付けてきた。

しかし、団塊ジュニアと呼ばれる世代は受験戦争という競争原理のなかで、「受験学力」という名目で高度な読み書き能力を身につけていった。受験英語の多様化のなかで早くから欧米のレトリックに習熟する者も現れた。情報化社会の進展に伴い、従来であれば海外留学でもしなければ得られなかった学術的な知識が容易に手にはいるようになった。これによって以前ならば、大学教授だけが独占していた知識が、学部学生でも容易に身につけることができるようになった。日本語の文章はもちろん、英語の文章が読める者も少なくない。こうなるといたずらに難解な文章はもはや「格式」を失い、文章作成能力の拙さだけが目に付くようになった。

池内氏はイスラム社会を専門とする研究者で、国際日本文化センター助教授である。73年生まれの団塊ジュニア世代である。気鋭の研究者でありながら一般の新聞読者に向けてこのような明快な文章を書く能力を持つ。従来の「学者」ということばが表すようなネガティブなイメージはない。こういう人が増えてくると、高卒の人でも大卒の専門外の人でも、さまざまな情報を得ることが可能になる。自分の研究が一般の人に対しても何らかの影響を及ぼすことを認識すれば、研究者の側もより真剣に、そしてより明確な目的意識を持って研究に取り組むようになる。

新しい時代の幕開けなのかもしれない。だが、高等教育に関しては、この流れによって

  1. 在野での学習が加速して学部が形骸化する、
  2. 興味を持った人たちが大学に戻ってきて学部が生涯学習の拠点になる、

のどちらに向かうのかは分からない。ただ20代前半までの学歴だけで人生が左右される社会ではなくなる「脱学歴社会」に向かうことだけは間違いなさそうである。