受験小論文の担い手
「国語」の領域なのか?
大学入試が多様化するにつれて、「小論文」が受験科目のひとつとして認知されるようになった。大手大学受験予備校では「論文科」を設けていて、国語とは別に扱われるようになっている。だが、一般的には国語、とりわけ現代文の講師が小論文も担当する場合が少なくない。もっとも、受験国語の担い手もさまざまである。もともと、受験産業では教員免許の取得は不問である。高等教育を受けていれば、抽象度の高い日本語の文章をそれなりに理解できる*1このため多様なバックグラウンドを持った者が現代文指導の現場にいる。文学をやっていた者、哲学をやっていた者、あるいは社会科学系の分野を専攻していた者も少なくない。こうした現代文講師のなかで、文章をどう読むのかということを客体化し、それを出題傾向に即して提示できる者が受験現代文という分野を牽引していく(はずである)。当然、このノウハウは受験小論文のそれとは異なる。
一方、小論文の入試問題を高校生が自分で解いてみた場合、どの先生に見てもらいたいと考えるであろうか。まず、国語の先生のところに行くだろう。それも、国語表現を教わっている先生のところに行くというのが普通だと思う*2。しかし、そこで見たもらえるのは、文章の形式的な側面であって、内容的な部分の添削については期待できないかもしれない。国語の教師というのは、日本語という言語を文学の側面から教えることを生業としているのであって、それ以上でもそれ以下でもない*3。
それでも、「国語」だと思う。
私見では、小論文は「国語」だと思う。それは文学としての国語ではなく、言語技術としての国語である。現代では国語の運用能力を意識的に学習することが必要である。少なくとも、読み書きについては意識化(awareness)が必要である。表記の問題、文構造、段落の仕組みや文章の全体構造、こういった言語知識を意識的に学習させるのは国語の仕事だと思う。もちろんプロの物書きには文章表現の実践知があるのだが、中学や高校では国語教師がそうした実践知を体系化し、生徒に提示する役割を担うべきではないだろうか。
国語教師では、小論文の内容まで踏み込めないのではないかという問題が確かにある。だが、言語の知識だけでは言語は使えないのである。人間は言語をによって何かを表現したり、何かを理解したりする。その「何か」についても、ある程度踏み込むのが言語教育に携わる者に必要なことだと思う。英文読解では「内容スキーマ」として関心が集まっているが、内容スキーマは外国語であろうが、母語であろうが、考慮しなければならない部分であろう。
私のこと
これは他人事として書いているわけではない。私自身もこのために何か行動に移さなければならないと思っている。この「何か」については、このブログでもかけるものについては書き綴っていこうと思う*4。