持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ウェブリング“English”からお越しの方へ

英語のブログのはずなのに、なぜ日本語なのか、しかもなぜ古文なのかと感じる方がいらっしゃると思います。これは大半の日本人が体験する言語学習を見渡し、そのなかで英語学習について考えていこうとする意図があります。外国語を1言語(主に英語)しか学ばない人でも、国語教育は当然受けてきているわけです。国語学習と英語学習が互いに干渉しあうのではなく、たがいに相乗効果を上げるには、どうしたらよいのか。その一環でこのような記事を書いています。

古文理解と現代語訳(その1)

古文理解における現代語訳の位置づけ

古文を古文のまま理解しろ、というような主張はあまり耳にしない。漢文であれば素読などのような活動もあるのだろうが、古文では事情が違うようである。つまり、古文の理解において現代語の介在は不可欠なものと一般に考えられているのである。しかし、現代語訳を古文理解のなかでどう位置づけるかということに関しては、さまざまな立場がある。
もっとも急進的で、またある意味で現実的な主張は、逐語的な現代語訳は有害無益であるというものである。柳田(1995)は、いわゆる教科書ガイドのようなもので学習者が現代語の全文訳に目を通すことによって古典の作品に描かれた内容をイメージしているという高校現場の実情を述べている。こうした現実から、古文の指導は必ずしも古文そのものが読めるようになることを目標にするのではなく、「古典の理解」ということをもっと柔軟に考えるべきだと主張する。
現代語訳が無益とは言わないまでも、現代語訳ができたことがすなわち理解したことにはならないという立場もある(青木1995)。この主張は、理解ができていないのに現代語訳ができる学習者と、それを可能とする学習環境を認識したうえでのものである。理解ができないのに現代語訳が可能となるのは、全訳古語辞典と呼ばれる、用例のすべてに現代語訳を付けた学習辞典が普及しているからである。
現代語訳が古文理解の目的であるという主張もある(糸井1998)。糸井は、古文の理解には内容の理解だけでなく古典語自体の理解も必要であり、そのためには現代語との関係の中で古語を相対化することが必要であると主張している。柳田の立場と糸井の立場の違いは、文学教育としての古典の教育と言語教育としての古典語の教育の違いと考えることができる。

参考文献

  • 青木和夫(1997)「古典の教育と古典語文法の教育」『国文学解釈と鑑賞』62(7) pp.29-36.
  • 糸井通浩(1998)「生徒は古典文法の何に躓くか−学習のポイントを探る」『国文学』43(11) pp.26-33.
  • 柳田浩二(1995)「何のための古典教育か−現実の古文指導を反省してみよう−」『国文法解釈と鑑賞』60(7) pp.131-134.